院    長

 んにちは、院長の 神部直博 (かんべ ただひろ) です。干支は丑年で血液はAB型です。神奈川県横浜市のとある商店街で、お茶屋の次男坊として生を受けました。ちっちゃな頃から悪ガキで、商店街では屈指のいたずら者で通っていました。ちょうど東京オリンピック開催の頃でしたから、横浜の商店街といっても道路は未舗装、お店は木造平屋で映画『三丁目の夕日』さながらの町並みでした。あの映画に出てくる子供たちの服装や遊びは、私の思い出そのものです。

 小学校4年生の時、二つ歳上の兄が通う剣道場を、好奇心で覗いたのが事の発端、以後大学を卒業して社会に出るまでの20年間、竹刀を握るハメとなりました。え、計算があわない?はい、人生いろいろです。私の人生、紆余曲折・波乱万丈です。高校は地元の県立光陵高校に通いましたが、鬼の様な剣道部顧問の元で、地獄のような剣道生活を送りました(田島先生、ごめんなさい!)。正月元旦、お盆も休まず練習、合宿は年に4回。学校は電車とバスを乗り継ぎ1時間ほどの場所でしたが、交通機関がストライキの時も、学校までランニングして集まり、練習しました。「継続は力なり」というありがたい教えを、身を持って教えていただいたのです。学校自体は学業重視の進学校だったのですが、剣道部だけは別世界の様相で、打たれ強い性格と強靭な体力をここで養っていただきました。

 高校3年間剣道まっしぐらの生活でしたから、将来は高校教師となって剣道部の顧問をするものだと固く信じていました。そんなある日、北里柴三郎の生涯をドラマ化した番組がテレビで放映されたのです。ちょうど多感な年頃でしたから、すぐに影響されて、翌日には「おれは 医者になる!」と公言してはばかりませんでした。父親は「分かった、ただし国立にしてくれ」と一言だけ。この日を境に、剣をペンに持ち替えての壮絶な戦いが始まったのです。

 高校を卒業して、すぐに大学へ行くのも芸がないので、横浜桜木町にある神奈川県立図書館へ2年間通い、読書三昧の日々を送りました。デカルト、カント、ショーペンハウエルなどの哲学書をはじめ、宮本武蔵の『五輪の書』を読破したのもこの頃です・・・・・・・。すみません、うそをつきました。浪人です。でも哲学書を読みあさったのは本当です。3浪目からは、舞台を東京市ヶ谷にある「〇台予備校」にうつしての延長戦となりましたが、結局のところ苦節4年の末、若干の進路変更を余儀なくされ、長崎大学歯学部に入学を果たしました。かの長きにわたる苦難の日々に耐える事が出来たのも、ひとえに田島先生のおかげと、心より感謝しております。

 大学へ進学すると、学問と剣道の両立に苦労しました。剣道部はサークルではなく、全日本などにも出場する長崎大学体育会の剣道部でしたから、練習量は高校の頃と変わりませんでした。部内では副主将を任されていましたが、「文武不岐」 言うは易し、行うは難しです。

 大学を無事6年で卒業して就職した先が「医療法人恵歯会」です。恵歯会は歯科医療としは日本最大規模の医療法人で、分院は国内に留まらず海外にまで手を延ばしていました。ここで、様々な先生方に師事していただいた事が私の人生の宝となりました。口腔外科、矯正、インプラント、無痛治療、滅菌法、等々。今の自分の礎を築いていただいたのも恵歯会のお陰です。現在も「関東恵歯会OB会」に所属し、勉強会や家族会に出席させて頂き、常に研鑽を怠らぬよう心がけています。